ゆとりの逆襲

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川崎中1殺害――『無関心という大罪』から学ぶ

『無関心という大罪』

 いじめという言葉は軽すぎるので敢えて使わず、ここでは、犯罪という言葉でいじめを繰り返していた非行少年たちを表現しようと思う。

 悪いのは事件を起こした少年、でも、それでもこれは社会が起こした事件のひとつだと思う。無関心が蔓延る社会で、無関心でいられないほどの非行・犯罪を繰り返してきた少年に対し、一歩踏み出して声を上げる。誰が見てもヤバい少年に、何か対策を取れなかったのは大きな失態であると思う。小さな命を犠牲にしたのだから、知っていて声を上げず、無視してきたとしたら罪は重い。ヤバい少年が起こした悲惨な事件だが、責任は少年3人だけには降りかからない。

 

「まさか、そんなことするなんて」は、誰もが思うこと。きっと、誰もが一度は誰かを殺したいほど憎んだことがあって、誰の心の中にも悪魔は住んでいるんだと思う。それを抑えつけるのが理性。その理性が発達しきれていない人は、やっぱり危険だし、周りもそれが分かるはずである。

 

 この少年は、報道では過去に猫を乱暴し、暴行事件もしていたという。何をするか分からない、そんな少年をどうにか更生させる方法はなかったのか。少なくとも、いじめを止めさせることはできたはずだ。

 今回のような酷い犯罪(いじめ)を繰り返していた少年たちには、一般の教師たちでは荷が重すぎる。非行少年を専門としたカウンセラーが必要になってくるのではないかと思う。

 そして、何より親の責任はかなり重い。18歳ということで、少年と言われる年齢は少し過ぎているかもしれない。親は、どう見ても危険な自分の子どもに責任を持つべきだと思う。見て見ぬふりをしていたとしたら、その罪は果てしなく重い。それはある種のネグレクトであり、それによりモンスターを生み出したということなのだから、最悪のネグレクトでもある。法律で、「子どもの危険さを分かっていながら、何も対策を取らなかった」ことへの罪を加えても良いかもしれない。

 

 「怖くて抜けられない」と友人に語っていた被害者の少年。グループから抜けたいと言っていたのに、だれか助けてあげられることは出来なかったのだろうか? そう思わざるを得ないが、殺人にまでいかなくとも、誰かが助けられれば何とかなったという状況は身近にもある気がする。

 被害少年、加害者とされる少年たちの周りだけを責める訳にはいかないのだ。この事件は日本の社会そのものを反映していると言えよう。

 

私たちに出来ることはなにか

 話はがらりと変わり、自分たちに出来ることを話そうと思う。

 日本中の人を元気にすることなんてできなくても、周りの人をちょっとだけ元気にすることならできるかもしれない。誰かに気を遣うことも、やはり必要である。

 たとえば友達が元気がなさそうだったら、食事に誘って、美味しいご飯を食べて、他愛もない話をして、ちょっとだけ元気になって貰える場を作ること。

 そこでその人が相談したいと思えば、向こうからしてくれるんじゃないのかなと思う。「相談ごととかある?」「最近元気にしてる?」なんて言われると、相談する前に構えてしまうから。

 実際、確実に悩みを持ってた友達は、他の友達からそう言われて何も言わなかった。帰り際、ぽつりと―一番悩んでることじゃなさそうだったけど―準・悩みぐらいの悩みを打ち明けてくれたことがあった。下手に聞かない方が、「実はね……」って感じで打ち明けてくれるんだよね。

 大切なことは、誰かをいつもより少しだけ気遣うこと。周りにヤバい人がいたら、誰かに相談したり、児童相談所・警察に話しをしに行くことを躊躇わないこと。知ってしまったことで責任が発生することを自覚すること。あなたにしか出来ないことがあるかもしれないからだ。