ゆとりの逆襲

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運動会の練習って、果たしてそこまで徹底的にするべきものなのか。

今週のお題「運動会とスポーツの秋」

 何事も一生懸命なのは日本人の美徳だ。だが、運動会の練習って、果たしてそこまで徹底的にするべきものなのか。

 さっさと集合しなかったら、ハイもう一回。行進が揃ってないと、ハイもう一回やり直し。行進が大事? そんなに協調性が大事? 協調性なんてものは他でも十分補えるし、日本社会はみんな一緒に合わせすぎるからストレスが溜まるのだ。準備体操だってちょっとダルそうにしてたら怒られる。準備体操なんて週に2回は体育の時間にやらされるのだ。わざわざ運動会に向けてする練習ではない。

 ダンス。いつからダンスをするようになったのかは分からないが、運動会のダンスは猛特訓させられる。そんなの好きな子だけが勝手にやればいいものを、小学校なら先生が考えた、時代遅れも甚だしいダッサいダンスを強制的にやらされる。それで、ちょっと間違えたらハイやり直し。おかげでダンスの練習もそんなに楽しいと思った記憶はない。

 騎馬戦なんかは個人的な恨みになるが、背が小さいというだけで上に乗せられ、自らの運動神経を考慮して嫌だと言っても聞いてもらえない。力負けして帽子を取られても、後ろからひょいっと取られても、下の人間は残念そうな空気を醸し出す。……これの何が楽しいのか。

 組体操なんて無我の境地ならぬ、無駄の境地である。無駄の極み。毎年何人かは高いピラミッドで大怪我をするわ、ちょっとした感動のために何度も何度も練習させられる。組体操なんてサーカスに入りたい子どもがこっそり練習すればいいだけのことで、命がけでするほどの価値はない。

 

 運動会の練習にどれだけの時間を割かねばならないと思っているのか。その間を使えば歴史の授業は平成まで辿りつくかもしれないし、国語だって新しい話を読む時間があるかもしれない。保護者と教育委員会は今一度考え直すべきだ。

 そして、恐ろしいことに年々運動会は進化していっているのである。子どもたちの勉強時間を割いて。もう一度問おう。運動会の練習って、果たしてそこまで徹底的にするべきものなのか。